私の思索世界

これまでに思いついたことを書き連ねています。
私は、これを見た人がそれをきっかけにして自分で何かひらめいたらいいなと思っています。
あなたが何かひらめいて、そしてそれを人に話してくれたら、私は嬉しいです。
あなたの話を聞いた人がまた何かひらめいたらもっと嬉しいです。
そんな連鎖が広がって人が自由で幸せになったら、私も幸せです。
・・・と言えばかっこいいけど、
実は、僕はときどき突拍子もないことを言うけど、
それにはこういう考えがあっての話なんだよ、と
言い訳をしたいためのページでもありますね。



座禅中に見えたイメージについて(自他同一)

 大学生の時(1981年)、なぜ勉強しなければならないのかと思って自分の部屋で座禅のまねごとをして静かに考えたことがあった。そのとき頭に浮かんだイメージがこれ。 地平線の果てまで銀色の玉がいっぱい転がっていた。

 最初、これらの玉は人をあらわしていると感じた。そして、手前の玉が自分だと感じた。
 しかしその後、隣の玉も自分だ、という感覚を覚えた。そして、自分はこの手前の玉なんだけれども、ここにある玉どれも自分だ、という感じがした。それと同時に、これら全体を見ている上からの視点も自分だと感じた。

 それと、この玉は表面が鏡のようになっているので、一つの玉に周りの全てが映り込んでいる。よく言われるように、何事も遠くに行って手に入れる必要はなく、全てが今ここにある、という考えを物質的・現実的な形にしたようなイメージだ。
                                              (1981年)


座禅中に見えたイメージについて(勉強する理由)

   その後に続けて、このようなイメージが浮かんできた。

 なんか上の方におっきな雲みたいのがあって、そこから糸みたいのがのびていて、その先はいろいろな人になっている。
 これを見て思った。人は端末もしくはセンサーみたいなものだと。おっきな雲はメインコンピュータで、ここに情報を取り入れるためにそれぞれの人がいるんだと。そしてその取り入れることができる情報量は、その端末つまりその人の能力によって異なってくるのだと。

 おっきな雲は『人類の叡智』だと思った。だから僕は人類の叡智のために自分の能力を高め、勉強するのだと思えた。決していい会社に入るためとか、将来の安定のためとか、自分のために勉強しているのではない、と思えた。

 もう少しよく見てみると、いろいろな人がいた。OLのような女性もいた。赤ちゃんもいた。原始人もいた。兵士もいた。実は、僕にとって兵士とは「人殺しを商売としている」といった認識であり、『人類の叡智』の端末であるということに抵抗をおぼえた。しかしその時思いついたことは、端末(センサ)の種類によって取り入れることのできる情報が異なるということだ。赤ちゃんは赤ちゃんでないと取り入れることのできない情報を取り入れる事ができる。女性は女性でないと、兵士は兵士でないと取り入れることのできない情報を取り入れる。そしてまた思った。人には個性がある。その人でないと取り入れることのできない情報があるんだ。その人がそうであることに価値があるんだ。決して無駄な人やそうであってはいけない人はいないんだと。
                                             (1981年)

(p.s. 2012.9.25)
 最近思い付いた。この形は情報を取り入れるINPUTの形として見ていたが、もしかしてOUTPUT、つまり世界を創作するのもこの形というかこのルートでなされるのではないだろうか。となると、ますますその人がその人独特であることが貴重になってくる。その人がそうであるから、この世界がこうなっているわけだ。僕は多様性がある世界が好きだ。豊かだと思う。


宇宙との契約について(業務分担契約)

 昔のある武将はお家再興のために「願わくは、我に七難八苦を与えたまえ」と天に向かって祈ったそうだ。しかし僕は、何かやりたいことをやるのに、そんな苦難は味わいたくない。
 それで思いついた。天(宇宙)に対して、こう言うことにした。
「あなたの理想とする世界を創るために私という存在を使ってください。そのかわり、そのことを達成できるための運をください。」
 つまり、僕は3次元の物体を動かす事ができる。あなたたち宇宙は運や縁を動かすことができる(と思う)。ならば業務分担をしよう。僕は自分に鞭打って働くのは嫌だ。だから、あなたが僕の運や縁や感情、思考、興味、インスピレーション、価値観、健康、やる気、欲求、etc.を動かして、僕がなんの抵抗や困難もなくスムーズにそのことを実現できるようにしてくれ。
 もし僕が何かをするときに苦労するなら、それはそっち(宇宙)の業務怠慢だ。契約違反だ。そんなんだったら俺だってやらない。本当に俺に何かをやらせたいのだったら、据え膳を用意しておくように。道は舗装しておくように。^^;

 僕の理想は「調和に満ちた心安らかな地球を創る」ことだ。と、こういうふうに思いつく自体も、宇宙の操作が入っているのかもしれないな。いったいこれはどっちが持っている理想なのか、どっちが実現させようとしているのか、どっちのためにどっちが動いているのか動かされているのか、わからなくなってきた。
 たぶん、僕も宇宙そのものなんだろうな。


すべてはうまくいっている

 私は、「すべてはうまくいっている」という言葉を持っている。
 物事を「すべてはうまくいっている」ととらえたとき、おもしろいことが起こってくる。どんなに不運だと思えることでも、それはうまくいっている途中の一つのステップなんだと思える。だから、その不運と思われることにも耐えられるし、むしろ、この状況をどう活かそうか、という方に意識が向いてくる。この状況下で、どんなことが可能か、ということを考えられるようになる。そうすると、本当にそれが何とかなってしまうものなのだ。
 これは当然と言えば当然の話だとすることもできるだろう。不運を嘆くだけで何もしなければ、状況はますます悪くなっていくし、対策を考えて措置すれば、状況は良くなっていく・・・。確かにそうだが、しかし、そういう論理的な意味合いだけでなく、縁とか運とかを感じられ、それも含めてなんとかなってしまうものだと感じられる。自分がそう感じられるというのも、うまくいっていることの一つだろう。
 また、「××をしなければならない」というのも「すべてはうまくいっている」という観点から見るとしたら、「周りすべてが、それをやりやすい状況を作ってくれた」といえる。また、「××をすることができない」というのは、「今思いついている以外の方法で実現する方法を考え出す機会ができた」といえる。

 時々、「これでもうまくいっていると言わなきゃならんのか?!こんなにつらい状況なのに!」と天を仰いで言いたくなるときがある。そんなとき、私の頭に浮かぶのは、「何をいまさら!現状がどう見えるのであれ、うまくいっていると見る、という立場を取ることにしたんだろうが!」と叱られてしまう。
 思うに、この「全てはうまくいっている」という見方の中では、失敗というのが存在しえないだろう。全ての起こったことは、うまくいっているという過程の中の一つのステップなのだから。

 先日、この「すべてはうまくいっている」という考え方も、一つの通過点ではないか、ということに思いが至った。そのときは、次に何があるから、というわけではなく、単に何となくそういう考えが出てきた。
 そしてその後(2001年2月)、思いついた。それは、「すべてが使える」ということ。「すべてはうまくいっている」というのが、待ちの状況で受動的なら、「すべてが使える」というのは、攻めの態度で能動的。例えて言えば、川の流れの中を川の流れに沿って泳いでいく魚から、川の流れを自らの動きで変えていける存在になりたい 。


私の「勝ち」の定義

 私の「勝ち」の定義は、「相手がありがとうと言う」ことだ。

一般的な「勝ち」の定義は、相手が「負けました。降参します」「私が悪うございました。ごめんなさい」と言ってきた、というところでしょうか。 でも私は、私の「勝ち」の定義を、相手が「ありがとう」と言ってくること、としちゃいました。
この定義からすると、相手が「負けました」「ごめんなさい」と言ってきたら、それは私の「勝ち」ではありません。

私は勝つのが好きですが、この定義を創作してから、勝ち方が変わってきました。何より、相手を攻撃しなくてもいいのが楽ですね。自分の中にネガティブなエネルギーを造らないですみます。 ただ、智恵は使いますね。でもそれは私にとって喜びです。
私は、人が考えていないことを考え出すことが喜びであるという私です。今まさに闘っているこの相手が「ありがとう」と言える解決策を智恵を絞って考え出すのは、まさに私の喜びです。

そういうわけで、私は勝つことについて自由になりました。他人が創った「勝ち」の定義に則った勝ち方で闘わないですむのですから。自分の好きな勝ち方、自分の考え出した勝ち方を使っていいわけですから。
自分で意識して言葉を定義することは、自分を自由にしますね。

(2008年5月)


道を究めると個がなくなる(個から場へ)

 道(どう)を究めていくと、自分というか、個人の存在が無くなると思う。自分が道(どう)そのものになってしまう、という方が良いか。または、自己表現を極めると自己が無くなる、というか、自己が世界そのものとなる、というか、自分ひとりで自己表現をするのではなく、自分と一体化した世界を使って自己表現をする、と言ったらいいのか。

 そして、道を究め個がなくなると、ある結果が発生した時に、「誰」がそれを作ったか、ということは問題ではなくなる。その結果が発生したらそれでいい。「俺がこれを創るという目標を立てたのだから、この結果を作ったのは俺でなくてはならない」ということがなくなる。こういったエゴがなくなる。
 これをもう一歩進めると、自分はその結果を作るのに全く関わっていなくても、その結果は自分が創り出したということができる。これは人の手柄を横取りする、というレベルの話ではない。道を究めて自分と人との区別がなくなった世界の話である。
 別の表現をすると、「自分の前に現れることは全て、自分の責任である」ということになる。自分が直接創り出したものではなくても、自分が認識する世界にそれが現れているならば、自分の責任である。自分が創り出したものである。
 また別の表現をすると、直接的な因果律によらないということでもある。「場」が結果を創り出す、といったほうがわかりやすいかもしれない。「場」という時、その中に置かれている個々の要素も含めて「場」である。直接的にはある個別要素によって結果が発生したかもしれないが、それを「場」全体がその結果を創り出したと見るのである。

 これを読んでいるあなたは、それがどうしたって言うんだ?と思っているかもしれない。そういう認識が何の役に立つんだ?言葉遊びではないのか?と。でも、そういう認識をすることによって、他人の幸せを妬み無しで喜ぶことができるでしょう。「自分のこととして」ではなく、「自分のこと」なのだから、喜ぶのもきわめて当然のことなのである。どう?これっていいでしょう?同様に、例えば地球環境問題を自分の責任だと実感し、認めることもできるでしょう。それも罪悪感なしに。これもまた充実感あふれていて素敵なことでしょう?歓喜の中で責任を取ることができるんですよ。

(追記)
 こうして個がなくなったところで、各人の個性を活かして、その人でなければできないお祝いの仕方や問題解決を行うわけだ。個がなくなったからといって個性がなくなるわけではないし、ましてや無責任になるわけでもない。
 また、個がなくなるといって、従属するわけでもない。「従属」ということ自体、従わせる者と従う者という「個」がある世界の考え方であるから、個がなくなると「従属」ということは論理的に存在しえない。
                                              (2002年1月3日)


「私は誰?」という質問について

 私は「私」だ。そうとしか表現できない。
 私の持つ肉体や地位や性格を挙げたとしても、それは私の部分しか表現していない。私の持つ縁や運、過去の体験や未来の可能性も私の一部なのに、それらは含まれていない。それらを全て含んだ言葉は、「私」という言葉しかない。私を表現するのに何かで例えたとしても、それは例えであって、私を100%表現しているわけではない。私を表現するのに、「私」としか形容できない。
 このことを発見した時、涙があふれ出てきた。
                                              (1989年)


私の創った言葉

 私は、「私は私の発明で人を幸せにする。それが私の人生だ」という言葉を創りだした。この言葉に沿って生きている。そのため転職をし、収入は1/3になったが、自分の人生を自分で創っている、という実感を得ており、充実感が何十倍にもなっている。
                                               (2002年ごろ)


人生は横軸だ!

人生といえば、普通はこのように時間軸があって、この下の方が過去、上の方が未来で、過去から時間軸に沿ってこういう物事が次々と起こって、そして現在に至る、と考えるでしょう。(図1) 
 でも僕は、「人生とはこの横軸だ」としてみたいと思います。(図2)
この横軸は何か、というと、今現在自分が選択しているもの、という軸です。ここに、今現在の自分が選択した考えや信念、感情、あり方、グループ、所有物、人間関係・・・があるわけです。
つまり、「人生は何か」と問われれば、「今現在自分が選択しているもので構成されている」という考えです。これは、これまで普通に考えられていた「人生とは過去の蓄積の結果」とは違う捉え方です
この横軸が僕の人生である、としてみたいと思います。
 もっとも、この横軸の人生は過去と全く関係が無いというわけではありません。このように、この水平線上の選択したものは、過去にあった物事の投影です。(図3)
 人生が縦軸ではなくて、横軸だ、とすると、いろいろ良いことがあります。例えば、もし人生が縦軸しかない、としたら、過去に起こったことはどうしても現在に影響してくるわけです。いわゆる、「逃げようが無い」、ということになります。(図4)
 しかし横軸が人生なら、現在は過去に影響されるのではなく、今あるもの、しかも今自分が選択したものにだけに影響されます。(図5)
 だから、自分を活かさない過去があったら、それを横軸に投影させなければいいわけです。(図6)

こうしたところで、私はウソをついているわけではありませんし、過去をなかったことにしているわけでもありません。過去は確かにあった、しかしそれは私の人生ではない、と言えます。なぜなら、私は「私の人生は横軸である」としたからです。

 さて、では今の自分、自分の人生を形作っている、つまり私が今選択しているものとは何でしょうか。それは、私がこのページに書いてきた気付いたこと、決めたこと、定義したことなどなどです。私はこの人生において、これらの考えを採択しています。
 ちなみに、私は今まで書いたこれらの事が真理であり、私は真理を発見したんだ!と言うつもりはありません。真理かどうか、そんなものは知りません。ただ、自分にとっては、これらは自分を活かしているので、採用しています。明日考えが変わるかもしれませんが、それもまた自由です。

                                             (2010年11月)